愛国
という時の
若干話をずらしたくなる感じとか
原発という時の
この
ちょっと一呼吸置きたくなる単語というか




けど
りょうほう
たぶん大事なことで





詩の直接行動





という時に
みなさんは、いったい
何を思い浮かべるだろうか





詩の直接行動。





原子力発電所は便利なものだ
ただ、便利のために
大勢の人間がたまに死ぬことはある




例えば老人たちは
資本主義社会の発展と我が国の国際競争力において便利ではない
精神障害者の大半は、自分の存在を社会全体と比較し
それが引け目になっていることを知覚している
そして健常者も彼らに少なからずそれを求めている
手が片方ない奴もガールズバーに行ってよいか?
手が片方無い奴がたくさんいるガールズバー





原発ということは、
便利の為に
人間を殺さないということかもしれない





原発によって死んだ人間の数と
自動車によって死んだ人間の数では
自動車によって死んだ人間のほうが多分多いだろう
東北とは関係無く
いま苦しんでいる人間はたくんさいる
愛媛でひき逃げされた人は実際今いて「がんばろう日本」って言われても多分困るだろう
日南海岸で自分のレイプ願望を必死に抑えようとしている無職の男はいる
彼にとってのプリウスとはなんだろうか?





そういう全体について話そう
人類の幸福について





地面がコンクリートアスファルトであったが為に
世界中で怪我をした子どもたちの数は数えきれない
コンクリートアスファルト
大人たちのどういう希望によって打ち立てられた概念であろうか





詩は社会へ





という時
むしろ臆するのは
普段、詩に関わり、携わっている側である筈である
なぜだろうか
だが、ルネサンスとはそういうことだろう





詩の直接行動





という単語が与える
一種の思考停止状態とはなんだろうか
詩とは
例えば現代詩の界隈にいるような
既にだめになった人だけに効能があるというのか






指定暴力団とか
呼ばなくていいんでないか
指定詐欺団とか
オレオレ団とか




ニュースで
指定オレオレ団とか呼ぶのは
何がまずいんだろうか
実はそこに
ニュースそのものの信用性が
依存しているからではないか
嘘の真剣さに






与党は野党を非難し
野党は与党を非難する






与党も
野党も
官僚も
メディアも
アメリカをもってしても
唯一
非難できない対象がある





市民だ







では
なぜ誰も市民を批判しないのだろうか?






この真犯人を!