はみだしったち子の朗読会特集

もう7,8年前になる
高円寺の無力無善寺というところで「はみだしっ子たちの朗読会」というイベントを月1で主催していた
当時のホームページがまだ残っていた
http://page.freett.com/roudoku/
結婚して子どもが生まれてからは月日がたつのがあっという間なので
ああもうそんなに一昔前のことなんだなぁって。
俺の感覚では2,3年前くらいかなと感じていた。
無力無善寺のマスターがおもしろいことしたいと相談してきたので
何かパーティーのような
サロンのような
ガハハと誰もが笑っていきいきとできるような
と考えていたら、もう一回はみだしっ子たちの朗読会をしてみるか、と思った。




いい場をつくろう、とは誰もが思う。
だが社会が争いで絶えないのは
人によって何が「いい場」なのかという定義が違うからだ
被害者にもならずに加害者にもならないということは可能だと思う
精神科に通うような人たちというのは、「正直に反応してしまう」という決定的な長所がある
多様性というのはそれだけで比喩になり得る
ルパンと銭形の共通点を
トムとジェリーの共通点を俺たちは誰もが薄々知っている
つまり俺達には対立してまるでバラバラに見える
もう収拾がつかないよ、という世界の事象をまとめられる可能性がある







詩の朗読会や詩の雑誌という
詩の世界、界隈において
詩っぽいことをしなければならないという考えはとても貧しい発想であると思う
比喩とは、わかりやすく伝えるという目的の為のある種の超訳と技法であるが
例えば現代詩手帳のような一応は日本でもっとも権威のある詩の雑誌などをみるに
ほぼその技法こそが目的になり、一体何を伝えたいのか
人間が人間に一体何を伝えたいのか、ということはおざなりになっているように思う
アートシーンと呼べば格好いいが、秀才が個性を発揮する発表会みたい
美術館いってあごひげ触ってるよりは、少なくとも俺はgoogle検索でオナニーに没頭してるほうが
本質的な問題であり、実生活の役に立つね





詩っぽくてなくてよい
声と言葉なら何でもいいのではないか
というのは、俺が朗読会というものを主催したりしだした時からの一貫した主張だ
詩というものや歴史というものを馬鹿にしていると言われたり
事実、自分が詩学(かつて存在した商業誌詩。後、自主倒産廃刊)に連載を持たせてもらった時も俺の連載を機に定期購読をやめるという人が相次いだりした
それはそれでわからんでもないが、
相続税についてどうすべきか
原子力発電所がなくては現実的に成り立たない
以前に、










男が悪いか女が悪いか以前に
脱法ドラッグのじゃあ法とは何か
以前に
生活保護の、
生活とは何か?
何のための?
何という概念、
以前に
































写真:美紀(まえの彼女)
元スタッフ:松本暁
協力:無力無善寺